廃品回収で見た親子の姿に感心 51才 3/2
先日、投稿人が所属する町内会にて廃品回収があったとのこと。出し忘れた段ボールを
出そうと指定場所まで車で運んだそうなのだが、投稿人の車を見つけるとすぐに何人かが
駆け寄り荷を下ろしてくれたとかで、その行動は奉仕の喜びに満ち溢れていたようだった
そうだ。
「何事も「人事」や「やらされている」と思うと途端に嫌になり、つい誰か
に押しつけたくなるものですが、彼らを見ていると、そんなことはみじんも
感じられません。1人ひとりが自分のこととして、みんなですることを楽しん
でいるように見えるのです。」
えーと。水を差すようで悪いが、実はこの行動には訳があることを補足しておきたい。私も1
度係りの順番が回ってきて、この手伝いをしたことがあるのだが、ハッキリ言ってとてもじゃな
いがサボれる雰囲気ではないのである。誰もが進んで手伝いをしていることを周りにしらしめ
ている感じ。周囲とうまくやっていかなければ、という思いが働き、私はやってるよ!サボッて
ないよ!と行動で訴えないと何となく居づらい感じなのだ。その結果、1台の車が到着する
や否や我先にと自分ができる作業を探しまくることになる。ボランティア精神とは別に、そうい
う心理も働いていると思われるのだ。
満州からの帰国壮絶な人生物語 75才 3/23
映画「赤い月」を見たという投稿人。映画の簡単なあらすじを紹介しながら自分の感想も交
えた投稿文である。そして、「終戦後、隣家へ満州から一家5人が引き揚げて帰って来られ
た」と投稿人の思い出話がラストの段落で書かれているのだが、
「(前略)リュックを背に、『やっと帰ることができました』と涙ぐんでいたの
を思い出した。それぞれの人生を生きてきたが?」
何だろう。生きてきたが?と言われてもなあ。「生きてきたのだろうか?」と問いかけたいの
か、「〜でしょう」の意味で語尾に「〜が」とつける岡山弁があるのだが、それでは意味が分か
らない。生きてきたが?不思議な終わり方である。読んでみたが?