オトコの正念場よ。
<3> 「菊地ー。今日飲みに行こ。事務所の女の子も誘ってるからさ」
退社時間も近い午後6時前。隣の営業部にいる遠藤がオレに内線電話をかけてきた。 今日は土曜日だし、そんな予感もしていた。しかしもう月末。 こんな誘いの電話を避けるためにさっさと帰り支度をしていたところだった。やはり同期でもある遠藤は少し小太りで愛嬌のある奴だ。 こいつがいるだけでその場の雰囲気が明るくなる。オレにとってもいろいろな相談もできる大切な友人でもある。 「久しぶりじゃん。予約取ってあるから」 おいおい。
「みんな月末だってのに大丈夫なのか?オレなんてもう・・・・」 「給料前だから行くんだよ。何だったら貸すよ〜。無利子で」 バカ。 「じゃ、菊池、あとでな」 「・・・・分かったよ。行くよ」 あ〜あ。これでまた墓穴。分かっているけど、断れない。 「オッケー。それと、なあ、津田さんは?」 は。 「今日子?あいつも?」 「いーじゃん。お前から誘ってみてくれよ〜。一度一緒に飲んでみたくってさあ」 「お前が言えよ。オレが言ったって一緒だよ」 あいつは会社の同僚と一緒に飲むタマじゃないぞ。 「いやー・・・・なかなか話かけにくくってさ。お前から誘ってくんない?」 「だから、何度誘ったって来たためしがないだろ。忘年会にしてもやっとだぜ。それでも一次会でとっとと帰っちゃうし」 「じゃあ、津田さんは何でお前とだったら飲みに行くんだよ」 あー。もう。面倒くさい。 「分かったよ。声かけてみるよ。断られたってオレのせいじゃないからな」 ガチャッ。 乱暴に受話器を置いて営業部の方を見ると、オレのいるコンピューター室に向かって遠藤がオレに大げさなくらい頭を下げていた。 アホらしい。これじゃオレはまるでダシじゃないか。ったく。 それでも断れない自分にいいかげん嫌気を感じながらも、今日子のいる企画開発部へ内線電話をかけた。 そんなオレを見て隣の席の室長が苦笑いをしている。 プルルルル。プルルルル。 「はい。企画開発」 「あ、菊池だけど。津田さんいる?」 「はい。ちょっと待ってよ」 受話器の向こう側は相変わらずの慌しさだ。今日子の声が近づいてくるのが分かる。 「もしもし。亮平ー?何」 「いや、今日、空いてる?」 「もーっ。この前のクレームの件かと思ったじゃない。なんで携帯にかけて来ないのよ。結構ヒヤヒヤしてんだからね!」 「悪い悪い。あれ、大丈夫そうだよ。何も言って来ないし。そりゃそうと、どう?」 「そりゃ、都合つけようと思ったらつくけど。どしたの?」 「遠藤がさ、ホラ、営業の。あいつが一緒に飲みに行こうってさ。みんなで」 「何でそういう誘いをあたしに振ってくんのよ。知ってるでしょ?そういう付き合いはしたくないの」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 「うん」 「まぁた、断れなかったんだ。で?あんたは行くわけ」 「・・・・・・・・・・・・一応」 断れなかったんだ。 「月末にねえ。ご苦労なことで。・・・・・由紀は?」 「・・・遅くならないつもりだし」 「ふーん。どっちにしてもあたしはパス。金ないし。じゃね」 ガチャッ。 今日子のヤツ、言いたいことだけ言ってくれて。 机の向こうで遠藤がオレを見る。すかさず、指で×マークを作る。遠藤、苦笑い。 今日子はモテるタイプだ。仕事ができる女は敬遠されがちだが、見えないところの気遣いが絶妙だ。 顔立ちはキツめの派手系美女、と言ったところか。ただ、メイクもスゴイので、(未だに素顔をオレは知らない)そこにダマされるヤツも 多いかも知れない。 由紀は特に美人だとかかわいいと言ったタイプではない。何のムダもないシャープな顔立ちだ。だけど、オトコを惹きつける妙な色気が漂っ ていることも確か。(そこにオレも魅力を感じているのかも知れない) 時間だ。とにかくしょうがない。今日は今日ででかけよう。 オレは由紀に「遅くなるよ」というメールを打ってから、いつものようにパソコンを抱えて事務所を出た。 実際のところ、由紀に打ったメールの返事も気になっていた。しかし、今日のところは幸か不幸か、「私も遅くなるから、いいよ」 という返事で、ひとまずは安心。 何せ、虫の居所でも悪ければ、後ろ髪を引かれながら家に帰ることだってあるのだから。
今日子が帰り際に言った言葉を急に思い出した。 オレはみんなと別れてタクシーを降りてからは、焦るような、そこから動きたくないようなそんな気分で部屋の前に立った。 オレが女の子と住んでいるのを知っているのは今日子だけだ。だからつい、いい気になってた・・・・・かも知れない。 どこかに飛んで行ってしまいそうな女。 いつか、今日子が由紀のことをこう言ったことがある。 根拠があるわけじゃない。ただ、そういう雰囲気を持った女だ。 もし、このドアを開けて、部屋に入って・・・・由紀がいなかったら・・・・? オレは一体、どうするんだろう。 どうすれば、いいんだろう。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 さんざん悩んだ挙句、オレはやっとドアを開けた。 冷静に考えてみると、ここはもともとオレの部屋なんだ。なのに何でオレがこんなところで考え込んでなきゃいけないんだ! 玄関を入ってすぐの部屋のドアが開けっ放しになっていた。 テレビは砂の嵐。冷たい床の上で、由紀はTシャツにジーンズのままで眠り込んでいた。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 オレはスーツのシワも気にせず、その場に座って由紀の寝顔をじっと見ていた。 何かオレって、ほんと、バカみたいだよな。 こんなたった一人の女に振り回されてばっかでさ。 その穏やかな寝顔を一瞬憎らしくも思ったが、何だか気が抜けてしまって、由紀のサラサラの髪の毛にそっと触れた。 オレは由紀を抱き上げると、すぐそばのソファーに寝かせて、テレビの電源を切った。由紀は一向に、起きる気配もなかった。
「でもさあ、結局さあ、ナメられてんのよ」 土曜日のおどし文句を責めると、今日子はあっさりとそう言った。 「ねえ、何でこんなことばっか言うの」 「決まってるでしょ。面白いからよ」 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・。 「あたしのあんな一言、放っておけばいいじゃない。それをまた間に受けて悩んじゃってさ。自分が彼女のことを信じてないってことじゃん」 ・・・・・・・・図星・・・・・・・・・・。 「ねえ、一度くらい無断外泊してみたら?そしたらあの子もいろいろ考えてさあ、少しくらい可愛くなるか、出てくかするわよ」 そんな、簡単に・・・・。 「・・・・なんてね。そんなこと出来っこないか。出よ」 今日子がオレの答えも待たずに、いつもの店のいつもの席を立つ。オレは返す言葉も見つからないまま、今日子の後を追う。 確かに、このままじゃ何も変わらない。そればかりか、由紀はどんどんオレの領域に入りこんで好きなように掻き回すだけだ。 真剣な顔をしているオレを見て、今日子がからかうように笑った。
「亮平、電話鳴ってる」 オレがシャワーを浴びて出てきたちょうどその時、由紀の声が呼んだ。 身体を拭きながら由紀から携帯電話を受け取る。画面を見ても見覚えのない電話番号が記されていた。 「もしもしー」 「あ、菊池くん?久しぶりー。分かる?」 おー。 「田中かあ。・・・・どしたの。急に。びっくりしたあ」 電話の主は3ケ月前、結婚して会社を辞めた同期の女の子だった。 今日子とも仲が良くて、彼女の彼(今のダンナ)と4人でよく遊びに行ったんだ。 「いや、それがさ、さっき今日子と話してたんだけどさ」 相手が女だと気づいたのだろう。由紀の鋭い瞳がオレを見ている。 話の内容は、やっと生活が落ち着いたから今日子と遊びに来いという誘いだった。由紀の相変わらず冷たい視線を気にしながらも、 彼女との会話を続けた。 『たまにはオレだって』と言う気持ちもあったのだろう。 もっとも、相手は哀しいことに人妻だけど。 また会う約束をして、電話を切った時にはもう由紀のふくれっつらが始まっていた。 「何怒ってんの」 「さっきの、女でしょ。すぐ分かるんだから」 「会社の友達だよ。結婚して辞めた子」 「そんな人が亮平に何の用事があるの」 関係ないだろ、と言いたいところだったが、そこをグッと堪える。 それは由紀と暮らし始めてすっかりオレの癖になってしまっていた。 「彼女のダンナさんとも仲良くて一緒に遊んだりしてたんだよ。それでまた家に遊びに来てって話だよ」 「人妻が家に誘ってるの」 あのなー・・・・・・・・・。 由紀は珍しくしかけていた夕食の準備もそこそこに、エプロンも外さずにテレビの前まで行き、オレに背を向けて膝を抱える。 仕方なくオレは、髪の毛の雫をタオルで拭いながら、由紀の肩を抱いた。 「やだもう。まだびしょびしょじゃんっ」 「信じてよ。そんなにオレ、信用できない?」 「・・・・・・・・・・・・・・・・」 半ば強引に由紀にキスしようとすると、由紀はすぐに顔を背けた。 「やめてよ、もう。そんなんじゃごまかされないんだからっ」 鋭い口調でそう言うと、由紀はそれきり何を言っても答えなくなった。 オレは由紀の作りかけていた夕食をつまみながら、それでも何とか由紀の気をひこうと頑張ってみた。 それでも由紀は、こっちを向かない。 分かってくれよ。 愛してなけりゃ、こんな風に手をやかないよ。 君がオレを信じてくれなきゃ、まるで違う二人がこうやって一緒に暮らすことなんて、出来ない。 -------信じてほしいよ------。
京都への出張が、1週間後に決まった。 もともとオレがやってるコンピューターの仕事は、出張なんてないのだが、来月新しく京都に営業所ができるため、そこに入るコンピ ューターの設置、本社とのオンライン作業を依頼されたのだ。 出張は4日間。しかも、営業所の立ち上げのフォローに今日子も同行することになったという。そのこともあり、オレはこの出張を由紀に何 て言おうかと、そればかりを考えていた。 4日間とはいえ、きっと由紀はまた余計なことを考えるだろう。しかも、今日子と二人だけ、だなんてことを知ったら・・・・。 「いい機会じゃない。黙っときなさいよ」 え。 「あの子にはいいクスリだわ」 「そりゃー・・・ムリだよ・・・・」 人気のあまりない廊下の壁にもたれて、今日子が束ねた長い髪を揺らし、意地悪く言う。 「あんた、由紀連れてく気じゃないでしょうね」 ・・・・・・・・・・それ、考えてた。少し。 「やっぱりね。ダメよ。あんた悔しくないの?好き勝手に掻き回されて。大体ねえ、一緒に住んでるくせに」 そこまで言うと、今日子は自分の声の大きさに気がついて、声をひそめて続けた。 「・・・・・一緒に住んでるくせに、しかもあんた相手に何が信じられないって言うのよ」 「オレだって、もうわかんないんだよ」 「だから、ここで思い知らせるのよ」 今日子がオレに顔を近づける。切れ長の大きな瞳が、オレを見据える。 「男の正念場よ」 それだけ言うと、今日子はくるっ、と背を向けて、長い廊下をすたすたと歩いて行った。 オレは緩みかけていたネクタイを直して、仕事場に戻りながら考える。 オレは、由紀を失いたくはない。勝手なヤツだが、いいとこだってあるしやっぱりホレてるんだと思う。 だけど、このままでいい、とも思っていない。オレ自身をもっと認めてもらいたいし、信じてほしい。 もしもこのまま何も言わずに、1週間後、出張に出かけるとする。理想的には今日子の言うように帰らないオレを心配し、 あいつはあいつなりにいろいろ悩んで考えて、オレの存在に気づくのだろう。 だけど、実際は・・・・? あの由紀が、4日間も連絡がつかないオレを、じっと待つなんてことが出来るだろうか。やっぱり、愛想つかして出て行くのが関の山じゃ ・・・・。 『それなら、それだけのことだったのよ』 今日子の悪魔の囁きが聞こえる。 またオレの、悩める1週間が始まった。
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