あいしてる?
<2>
朝から由紀は一言も口を聞かない。
無言でクロワッサンをちぎって食べている。
オレも無言のまま、コーヒーを口に運ぶ。
オレは出来れば、朝はご飯が食べたい。パンじゃ昼までとてももたない。
まあ確かに、事務所の中でずっとこもりっきりの仕事―コンピュータープログラマー―なもんだから、普通の仕事よりはオナカもすかない
かもしれない。
だけど、オレは一見、ちょっと細めだが(背は高くない)よく食べる方だ。ヤセの大食い、ってヤツかもしれない。好き嫌いもないし。
残業なんかある日は一日に5,6食は食べることもある。
だから、朝食はこうやって由紀と一緒にパンで済ませて、家を出た後でコンビニのおにぎりを会社で食べる、なんてこともたまにある。
そうまでして由紀に合わせるオレもオレだが、由紀は自分のしたいことしかしない。自分の感覚でしか周りを見ない。しかもガンコだ。
他人と他人が一緒に暮らしてるんだよ。少しは・・・・・。
ガチャン。
由紀が乱暴にコーヒーカップを置く。
「何怒ってんだよ」
「別に」
「別にじゃないだろ。どうしたんだよ」
オレが何したっていうの。
「昨日、何であんなに遅かったのよ」
「だから言っただろ。立ち読みしてたら遅くなったんだよ」
オレが帰って来たのは、部屋を出てから1時間後のことだった。
さっき由紀に言った通り、立ち読みをしていたからだ。事実、読み切れなかった雑誌は買って帰って来た。
オレが部屋に入ろうとノブを回すと、すでに由紀が鍵をかけてしまっていた。
ブザーをさんざん鳴らし、携帯電話に手を伸ばしかけた瞬間、寝ぼけ眼で鍵を開けた由紀はさっきと同じ質問を繰り返した。
「悪かったよ。でも、由紀だって眠ってたんだから・・・」
オレはそれ以上反論するのはやめた。由紀の鋭い、猫のような目がオレをちら、と見たからだ。
「謝るようなことでもしたの」
あ〜あ。
オレが返事に困っていると、片づけを済ませた由紀がガムを1枚、口に入れながらまたオレに言った。
「花、買って帰ってきて」
「・・・・・う、うん」
風の向きが変わるような、気持ちと話題。
「花って、何がいいの」
「ハイビスカス」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
「・・・・それって、花屋に売ってんのか?」
「知らない。でもハイビスカスがいい。それと、それに合う花瓶も買ってきて」
・・・・・・ま、いーか。同僚の今日子にでも聞こう。
「何でハイビスカスなんだ?」
朝食を済ませたオレは着替えをしながら聞いた。
「昨日までは牡丹だったの。でも朝になったらハイビスカスが欲しくなった」
ヘンなヤツ。牡丹にしたって。
「バラとかのがいいんじゃないの?」
「あたしはハイビスカスがいいの」
あー。はいはい。
「今日、少し遅くなるよ」
オレはネクタイを結ぶと、昨日とうとう完成しなかったプログラムの入ったパソコンを抱えて部屋を出た。
もう、怒ってないのかな。
いや、あいつのことだからわかんないか。
オレはカバンとパソコンを車の中に放りこんで、エンジンをかけた。
事務所のドアを開けると、すでに今日子が腕組みをしたまま窓の外をじっと見ていた。女ボス、という感じだ。
言うと怒るから言わないけど。
「おはよっす」
「おはよ。出来た?昨日頼んだの」
「もうちょっと残ってる。これからやる」
「おいおい、だから昨日ココで済ませて帰ったらって言ったのに。あの子がいたら仕事なんか出来ないでしょ」
確かに。
後ろで朝からまくし立ててる今日子をよそに、オレはパソコンを立ち上げた。
気弱なオレと突進型の今日子。設計図片手に現場を回り、男顔負けの仕事をこなす今日子は、この会社に同期として入った頃から、
その凛とした雰囲気で一目置かれていた。
そんな今日子はオレのあまりのマイペースぶりに黙っていられず、何かと口を出してくる。そしてそれをオレは聞き流す。
今日子がまた口を出す。そんな繰り返しで3年が経った。
いい友人と知り合えて良かったとは思う。一緒に飲みに行っても安心して酔える数少ない相手だ。もちろん、どちらかの部屋で飲み明かした
こともあるが、男と女の関係・・・なんてちょっと想像できない。
それを意識しないようにしている部分もあるけどね。
あ、そうだ。
「今日子」
「ん?」
「ハイビスカスってさあ、花屋にあるのかな」
一瞬、沈黙。今日子の顔を見なくてもどんな表情をしているか、すぐに分かる。
眉をひそめて、不機嫌な顔。キライな奴を見る時の表情だ。
「あんたね―・・・・・・」
二の句をつげかけた今日子を、社内放送が邪魔をした。今日子は舌打ちをして、
「お昼すんだらいつものとこ。待ってて!」と言い残して、電話口へと走って行った。
ドアを開けると、すでに今日子が新聞を広げてタバコをふかしていた。オレは一言『遅れてごめん』と言ってから、今日子と向かい合うように
して座った。
今日子が熱心に読んでいるのはスポーツ新聞。その姿は女の姿をしたただのオヤジだ。
「あ、コーヒーね」
そばを通ったウエイトレスにオーダーして、オレはすぐ後ろにあるマガジンラックから雑誌を取った。
「待った?」
「そうでもない。こっちも長引いたから」
今日子が相変わらず新聞から目を離さず、答える。オレはふと雑誌から顔を上げて、窓の外の景色をぼうっと見ていた。
この店は会社から近いのとシンプルな店内が落ち着けてオレ達のお気に入りの場所でもある。
「お昼どうしてんの?」
やっと新聞をたたんだ今日子が、ここに来てから何本目かになるか分からないタバコに火をつける。
「え。そこらへんで・・・・。今日はあそこ。駅前の・・・」
「じゃなくって。お弁当くらい、って、作るわけないか。あの子が」
「由紀?そんなの期待したことないよ」
「でしょうね。亮平、優しいし」
「今日子なら間違いなく作るんだろうな」
意外にも尽くすタイプだしな。
「あたし?当然でしょ。オンナとしてそのくらい」
古くさ。
「何か言った?」
「別に」
さて。話が本題に入らないうちに事務所に戻ろう。オレはそそくさと席を立つ。
「ちょっと、亮平!」
「お先〜」
「朝、ヘンなこと言ってたでしょ、ハイビスカスがどうとか。あれ、どうせまたあの子があんたに・・・・」
「ごめん、ごめん。忘れて!」
「亮平!」
レジで二人分のコーヒー代を払い、店を出る。今日子が由紀のことでオレにぶつくさ言い出すと、長くなる。
由紀に嫉妬しているわけじゃない。由紀が嫌いで仕方ないのだ。事実、由紀の前の彼女は今日子も気に入っていて、別れた時にはオレの方が
責められてしまった。
まあ、何はともあれ今日の説教タイムは穏便に済んだってことで。
オレは心からホッとしながら会社への道を急いだ。
約束通り、ハイビスカスと花瓶を抱えてマンションに戻った。花屋と雑貨屋を一体何軒回ったのだろう。
あー・・・・オレって、本当に・・・・。
ドアを開けて、部屋に入り、由紀の前に花束を差し出すと由紀は途端に上機嫌になった。何だかオレまでつられて嬉しくなって、由紀のおし
ゃべりを聞いていた。
食事を作るのは、その時に作れる人が作るようにしている。僕は料理は嫌いではないし、由紀はあの通り気まぐれだ。
1週間一度もキッチンに立たなかったかと思うと朝からいきなり食べられもしないような料理(豚の角煮とか)が並ぶこともある。
今日は作る気分でもあったのだろう。すでに部屋中にカレーの香りが漂っている。
オレは少しイヤな予感がしたが、玄関先に飾られた場違いなハイビスカスが何となく楽しくて、出されたカレーを一口、放りこんだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
やっぱり・・・・。
「どしたの?」
「辛くない?これ」
「そう?でも、この位辛くないと」
オレが一口目から一向に進まないカレーを、由紀はぱくぱくと食べている。
「何か入れたの、香辛料」
「唐辛子は多めに入れたよ」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
これ以上、言うのはやめた。由紀が好きなようにやってるのをオレが横から口をはさむと話し合いにもならない。堂々めぐりだ。
「まさか、また明日も・・・・・これ?」
「そうよ。明日はねえ、おウドンで食べよ」
明日・・・・残業しよっと。
由紀は食べ終わったお皿を簡単に片付けて、氷水をグラスに注いでオレの前に座る。
「オナカすいてなかった?」
「ちょっと、辛くて・・・」
「何よ。この間はいっぱい食べたじゃない。だからあたし、いっぱい作ったのに」
そう言われても・・・・・。
「このくらい大したこと・・・・。あ。分かった」
オレはふっと、顔を上げる。
「ちょっと遅くなるって、外で食べて来たんでしょ」
「違うよ」
「だって、いつもと違うじゃない。津田さんと一緒だったんだ」
「あいつは関係ないよ」
由紀が少し、ムッとした顔をする。
「あいつだって。何か怪しい」
オレは無言でカレーを口に運ぶ。
「いっつも今日子が今日子がって。友達だか何だか知らないけど、ちょっと慣れ慣れしいんじゃない?」
「オレが好きなのは由紀なんだよ」
少し苛立ってきたおかげで、こんなセリフもサラッと言える。
さすがに由紀も少し驚いたようだったが、すぐにオレに背を向けてお皿を片付け始めた。
分かってんのかなあ。
オレは何とか食べ終えて、氷水の入ったグラスを持ってテレビの前に座り込む。
「でもあたし、あのひと嫌い」
「何で」
由紀が日課でもある食後の濃い目のコーヒーをオレの右手が当たる位置に置いて、そこに座る。
「分かるでしょ。合わないわ」
はは。お互いにそう言ってりゃ世話ないよ。
「・・・・・あいつは、オレの親友なんだけど」
言い聞かせるように、オレは由紀の肩を抱き寄せる。
由紀がオレの頬に触れて、軽くキス。そして、それは長いキスに続く。
左手のマグカップを気にしながら由紀が床に倒れ込み、オレの短い髪の毛を抱きしめる。
「・・・・・・今日、クロワッサンは?」
優しくたずねる。由紀が笑う。
「あるよ、いっぱい」
くすくすくす。
オレ達は軽く笑い声をたて、またキスを繰り返す。
冷たい床が頭にゴツゴツ当たって、痛い。
でも、このままがいい。今は。
由紀の耳元に、首すじに、最後までキスを繰り返す。
テレビが外国の古い映画を流す頃、オレ達はすっかり冷めてしまったコーヒーを争いながら飲んでいた。由紀の裸の胸に、わざと零
れるように。