鉄条網越しに、見慣れた町が見える。
  まだ静けさを残す大気の向こう。
  僕は背中を向けて歩き始める。
  体の一部を残して行くような感覚に囚われながら。


  葵の声が聞こえた・・・・気がした。
  僕は手に持ったペンを机の上に置き、窓を開け、夜空を眺めた。
  目を閉じて、意識を集中させる。
  しかし、いくら待っても葵の声は聞こえては来なかった。
  前はもっと、鮮明に聞こえたはずだ。もっとはっきりと、そして、頻繁に。
  僕、泉と双子の姉・葵は物心ついた頃には不思議な力を持っていた。
 葵が発信者、僕が受信者として、離れたところにいても意識を飛ばすことが
 出来るというものだ。これがいわゆるテレパシーというものかどうかは僕には
 分からない。それに、意識を飛ばすとは言っても僕は葵の声を受けることし
 か出来ないのだから、お互いに会話が出来るというものでもなかった。
  葵の『心』が僕を呼んだ時、その感覚が伝わってくる、とでも言えばいい
 のだろうか。例えば、僕がいない所で葵が転んだり、誰かにいじめられたり
 して『痛い』思いや『悲しい』思いをしたとする。
  その時に葵が僕に向けてその思いを発信すれば、僕がそれをキャッチ
 して、その感覚を頼りに葵を探して助ける、というのが幼い頃からの僕の
 役目だった。
  僕たちは、誰に言われないまでもこの不思議な力は周りには知られない
 方がいい、ということを幼いながら感じ取っていた。母親も、離れた所に
 いるはずの僕がいつも泣いている葵を連れて帰ることを不思議がっては
 いたが、お互いにこんな力を使っていることはまさか夢にも思ってはいな
 いだろう。そんな風に僕は、葵を守ってこれまで生きてきた。
  双子とはいえ、姉であるはずの葵は僕にとってはまるで年の離れた妹
 のような存在だった。何かあるとすぐに僕を呼び、泣きじゃくっていた葵。
 僕はある意味、安心していた。葵についてはどんな男も僕にはかなわな
 いと。タカをくくっていたのだ。
  あいつが・・・・・現れるまでは。


  井上暁はこの春、新任として僕と葵が通う高校にやって来た。僕は朝礼
 で挨拶をする彼を見た時から、驚きと同時に嫌な予感がしていた。彼は
 僕と葵が中3の時、1年間だけ家庭教師をしてくれていたのである。
  葵はああいう性格だから何も言わないが、葵が彼に惹かれていることは、
 僕には分かっていた。そして多分、7つの年の差とはいえ、彼も同じような
 気持ちだったと思う。だけど、勉強を教えてもらっている間は常に僕と葵と
 彼と3人、という状況の中で二人の間がそれ以上どうかなるわけもなく、僕
 らは無事同じ高校に合格し、当然のごとく彼と会うこともなくなり、正直行っ
 て僕はホッとしていた。彼が家庭教師として来てくれている間、葵が僕を
 頼る機会がめっきり減ってしまっていたからだ。
  そして、こんな自分の気持ちにも、僕自身当惑していた。葵と僕とは双子
 であり、れっきとした血を分けた姉弟なのだ。だから多分、僕はずっと長い
 間、葵のいわゆる「ナイト」役だった立場に満足していて、それに邪魔が
 入るのが気に入らなかったのだろう・・・・と思っていた。

  あ。
  ・・・・・・・・・・・・ズミ・・・・・。
  ・・・・・・・・・・イズミ・・・・・・・・。
  葵。
  神経を集中させる。 
  段々と、そして強く、伝わってくる。
  哀しみ。戸惑い。迷い・・・・・・それぞれが入り混じった感情。
  どこにいる?葵。
  ・・・・・・ここからそう遠くない。目を閉じたまま、葵が見ている景色を探る
 。
  雑踏。薄汚れたコンクリートの階段。見慣れた看板。微かに、電車の音
  ・・・・・・。
  駅だ。
  僕は起き上がると、取りあえず財布だけを後ろのポケットに突っ込んで
 部屋を出て、玄関へと向かう。母さんの声が後から追いかけて来たが、僕
 は「ちょっと!」とだけ言い残して、外へ飛び出した。
  夜の9時。
  部活もアルバイトもしていない葵が何も言わずこんなに遅くなっているの
 は珍しいことだった。
  悪い予感がした。
  信号無視を繰り返し、自転車を走らせる。
  駅へ近づくごとに、葵の感情は段々と強くなってくる。
  僕を呼ぶ、葵の声。
  やっぱり、僕じゃなきゃだめだ。
  こんな突然に、こんな風に僕の他に誰が葵を助けてやれるのだろう。
  葵の感情を体ごと感じながら、駅前に出る。
  そして、葵は、いた。
  駅前の小さな噴水の前に、制服のまま座り込んでうつむいている。
  僕は自転車から降りて、息を切らしながら、葵に近づいた。
  「葵」、と呼びかけようとした途端、葵はふと顔を上げた。かと思うと、
 僕にしがみういていきなり泣きじゃくり始めた。
  僕は驚いてしばらく声が出せなかった。こんな葵を見たのはいつが最
 後だったのだろう。
  そうだ。僕らがうんと小さかった頃・・・・。
  僕は戸惑いながらも葵の髪をそっと撫でた。背中まであるまっすぐな
 髪が僕の指先にまとわりつく。
  「葵、何があったんだ?どうしたんだよ」
  泣きじゃくる葵の肩を抱き、顔を覗き込む。
  葵の目は真っ赤に腫れていた。今までずっと、泣き続けていたのだろ
 う。そう思うと胸が痛んだ。
  「・・・・・・・・・・・・・が・・・・」
  「え?」
  「せんせい・・・・・・・・やめさせられちゃう・・・・」
  「先生って・・・・」
  聞かなくても分かっていた。
  「先生とあたし、チェックされてたの全然知らなくって・・・あたし・・・」
  目の前が、真っ白に、なった。
  どういうことだ?葵。
  「今日、教頭先生に呼び出されて・・・・先生、辞めさせられる・・・・!」
  ・・・・・・・・・・・・・。 
  「どうしたらいいのか、分かんなくて・・・・。どうしよう、泉・・・・・」
  葵はそこまで言うと泣きながら僕の胸に顔を伏せた。
  僕はまだ、葵の言葉を半分以上理解できずにいた。
  信じられなかったのだ。
   その後、どんなに話しかけても葵は泣きじゃくるだけで口を開こうと
 はしなかった。僕は葵を慰めることよりも、たった今知った事実に対す
 るショックの方が大きくて、ただ機械的に葵の髪を撫で続けることしか
 出来なかった。


  「泉、入っていい?」
  真夜中の2時を過ぎた頃、ドアの向こうで葵の声が聞こえた。僕は読
 んでいた雑誌を伏せて、「いいよ」と答えた。
  結局、あれから僕は葵が落ち着いたところを見計らって、自転車の後
 に乗せて家に帰った。目を真っ赤に腫らした葵を見て、母さんは驚いて
 いたが、あえて何も聞こうとはしなかった。僕が突然飛び出して、葵と一緒
 に帰ってくる。そんなことは幼い頃から日常茶飯事だったから、「後は僕
 に任せる」ということになっていたのだ。
  部屋に入って来た葵は、案の定枕を抱えていた。一人で眠れない夜
 は、どちらかの部屋で一緒に眠る、というのが幼い頃からのお互いの習慣
 になっていた。僕は少し憂鬱な気分になってベッドの奥に体を移動させ
 た。二人で眠ることは昔はすごく楽しいことだった。だけど、最近ではこ
 の時間は僕をたまらなく憂鬱にさせていた。理由はよく分からない。だ
 が、葵に対してそんな気分になっていることを悟られないように、平気な
 顔で葵を部屋に入れてきた。そんな僕の気持ちも知らず、葵はさっきま
 での泣きべそ顔はどこへやら、嬉しそうな顔でベッドの中に潜り込んで
 くる。葵の洗いたての髪の香りがまたたくまに部屋中を包み込んだ。
   「ごめんね、泉」
  布団から顔だけをのぞかせて、上目遣いに僕を見る。僕に謝る時の
 いつもの表情だ。僕は少し、ホッとした。しかし、ここで気を緩めちゃい
 けない。僕は怒っているのだ。
   「ごめんじゃないよ。どれだけ慌てたか・・・・。ハッキリ言って怒って
  んだぜ、まだ」
   「ごめん」
   「葵が、僕にだけは隠しごとしないって思い込んでたからな。余計、
  ショックだった」
  僕は、さっき伏せた雑誌をまたパラパラとめくり始めた。どんな顔で葵
 を見ればいいのか分からなかった。
   「隠してたわけじゃないよ。言えなかったんだよ」
  今でも、信じられないでいるというのに。「ウソだよ」と葵が笑い出すの
 をまだ、期待していたのだ。
   「いつから?」
   「そんな、最近だよ。先生が赴任して来る少し前。ほら、街でばった
  り会ったって言ったことあったでしょ?」
   「ああ・・・・・」
   そうだ。学校から帰るなり、僕の部屋に飛びこんで来て嬉しそうにそ
  う言った葵。あれから・・・・?
   「それでね、最初はメールしてたのね。で、そのうち会うようになって
  ・・・・・。でも、まさかあたしだって先生がこの学校に来るなんて思って
  もみなかったんだよ。先生、黙ってたんだもん。だから、これは泉に隠
  してた訳じゃないんだよ。あたしだって知らなかったんだから」
   そんなことを怒ってんじゃないよ。
   「メールかあ。僕とのやり取りより確かだもんな」
   「・・・・・・・・・・・・・」
   一番聞きたいことが、聞けずにいた。
   ドンナ、カンケイ、ナノ?
   「・・・・さっきさ、教頭にチェックされてたって言ったじゃん。どこで会
  ったの」
   「喫茶店・・・・・」
   「なんだ、相談に乗ってもらってたってうまいこと言えばよかったのに
  」
   「・・・・・・・・・・・・」
   「葵?」
   「だめだよ。・・・・手、つないでたし」
   「・・・・そりゃ、マズイ・・・な」
   葵は顔を天井に向けたまま、目を伏せる。
   「ま、ホテル出たとこじゃなくって良かったよな」
   の「よな」は葵のビンタで途切れた。いってぇ〜。頬、赤くない?
   「サイテー」
   「んだよ。当然の推測だろ。あいつはオトナだし」
   「オトナよ。オトナだから・・・・待ってくれてるのに・・・」
   あ、そ。
   さっきの葵の言葉で、オレはホッとしていた。そして、もう少し葵の話
  をきちんと聞いてやる気になっていた。ゲンキンなもんだ。
   「で、あいつ・・・先生はなんて言ってんの」
   「辞めても構わないって。心配するなって、言われた」
   「じゃ、いいじゃん。葵はそれを信じて待ってりゃいいんじゃない?」
   「泉」
   葵は僕の突き放したような言い方が気に入らなかったらしい。僕の
  顔のそばで、葵の目がにらみつける。
   僕はそれを無視した。
   「どう考えたってあいつに責任があるよ。葵といくつ年が離れてると思
  ってんだ」
   「先生は悪くない。あたしが先生を好きなの。そんな風に言わないで
  よ」
   まずい。葵が怒るのを承知でわざと言ってみたけど、実際泣き出しそ
  うな葵を見たら・・・・・。
   「いじわる。泉」
   ほら、また泣き出した。全く葵は、いつまでたっても5才の頃のままだ。
  僕だけを頼りにしていた、あの頃の・・・・。
   僕は葵の頭をぽんぽんと軽く叩いて、ベッドサイドのライトを消した。
  葵の泣きじゃくる声とわずかな温もりが、今の僕には何よりも辛かった。
   僕はできるだけ葵と離れるようにベッドの隅に移動して背中を向けた
  。
   苦しくて長い・・・・・・・・・夜だった。

 
   「葵ちゃんを僕に下さい」
   目の前の男は、いつになく真剣な顔でそう言った。
   真夏の、昼休みの屋上にはまるで不似合いなセリフだった。
   僕は動揺していることを悟られないように、錆びた柵にもたれかかっ
  たままでその言葉を聞いていた。
   「それは僕に言うセリフじゃないでしょ、先生」
   オヤジに言えよ、オヤジに。
   「いや、オレからすればご両親に言うより君に言う方が勇気がいるよ」
   ふん。
   「本気でそう考えている。学校も辞めるつもりだ。どっちにしてもいず
  れは家の仕事を継がなきゃいけないしな。それなら早い方がいい。もち
  ろん、彼女の卒業を待つつもりだけど・・・・・・」
   「葵も同じ気持ちなの」
   「・・・・・ああ。そういう話はしてる」
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
   「葵がいいんなら、僕は何も言うことないよ。後はオヤジ達を説得する
  だけだろ。ま、先生なら大丈夫だよ。気に入られてたから」
   「泉。オレは」
   何か言いかけようとする先生の声も無視して、僕は屋上を出た。扉を
  閉めると同時に、どっと汗が吹き出してくる。
   暑さのせいだろう。何も考える気がしなかった。
   僕のそばから葵がいなくなる。そんなことさえもあまりピンとこなかった。
   ただ、葵がそう望むのならば僕が出る幕なんてどこにもない。そう感じ
  ただけだった。


   大学は、絶対に県外にする。そのことはずいぶん、前から考えていた
  ことだ。葵の結婚のこととは何の関係もない。それなのに、なぜ家族中で
  こんなに僕を気遣うのだろう。そんな空気が僕には煩わしくて仕方なか
  った。
   次第に家に帰るのが嫌になり、帰りも遅くなる。帰りが遅い僕をみんな
  が心配する。それが苦痛で家に帰りたくなくなる。そして、帰らない僕を
  よってたかって心配する。まるで悪循環だ。僕を叱る人なんてどこにも
 いやしない。それにつけこむ僕は僕で好き勝手に振舞う日々が続いた。
   落ち着いていてクール。何事にも冷静沈着と言われていた僕がわず
  かながら反乱を起こしたのだ。それはあくまでも僕らしく無言のまま行わ
  れたけど、 反乱は反乱だ。周りが慌てたのも無理はない。
   葵の『声』も聞こえていた。すがるような、祈るような思いが伝わってく
  る。
   だけど、もう僕は今までのようにすぐに葵の元に飛んで行く、ということ
 はしなかった。葵には僕じゃなく、もう守ってくれる奴がいる。だから、葵。
 僕なんかのことでそんなに苦しまなくてもいいだろう?
  その夜、ノックもせずに葵は僕の部屋に入って来た。何日かぶりにまと
 もに見た葵の顔は少し青白く見えた。
  僕はそんな葵も無視して寝転がったままで小説を読み続けていた。
   「泉」
  返事をしない。
   「泉、ちゃんと話、しよ」
  話すことなんて、ない。
  無視し続ける僕の手から葵が本をひったくった。
   「何すんだよ」と言いかけて言葉を失う。僕を見下ろす葵は今にも泣き
  出しそうな顔をしていたからだ。
   僕は葵のそんな顔に太刀打ちができない。もう平気だと思っていたの
  に、いざとなるとまるでダメだ。今までこれだけ意地を張り続けたのに、
  気がつけばうってかわったように首をうなだれる自分がそこにいた。
   意地を張り続けた・・・そう。こんなことさえも今まで気がつかなかった。
  ぴんとはりつめた糸がプツッとそこで、切れた。
   「泉?」
   情けなくておかしくて、笑いが止まらない。あんまりおかしくて涙が出て
  きた。
   そんな僕を葵は不思議そうにじっと眺めてる。込み上げてくる笑いとと
  もに、僕の中の何かが少しずつ流れていくような気がした。
   「どうしたの?ねえ。泉」
   「・・・・・ごめん。葵。ごめん・・・・・」
   おかしな泣き笑いをしながら僕はやっと一言、そう言った。
   僕がいなきゃダメなのは葵の方じゃない。ダメなのは葵がいない僕の
  方だ。それが今、初めて、分かった・・・・・・・・。



   気に入って何度も着たシャツをかばんに詰める。何度読み返したか
  分からない手垢だらけの文庫本と、傷だらけのMDプレーヤー。後はわず
  かなお金だけで十分だった。
   受験する大学の下見を兼ねて、夏休みいっぱい、ちょっとした旅行に
  出かけたいと言った時、何も聞かず賛成してくれた父さんに感謝した。
   もちろん、一人で旅行に出かけるなんて初めてのことだし、話にも聞く
  「貧乏旅行」にも憧れていた。
   期間は決めていない。ただ毎日連絡をすることだけ約束した。
   このことが決まって、僕の心は急に軽くなったような気がしていた。
   正直、幸せそうな二人を相変わらず無関心な、平気な顔をして見続
  けることはもうとっくに限界がきていたのだ。
   あの日、意地を張ってひねくれていた自分自身を葵の前でようやくさら
  け出すことができた後は、表面上だけでも二人や親に対しても平気そう
  な顔ができるようになっていた。それだけでも周りはずいぶん安心したよ
  うだった。  
   何事もなかったように毎日は過ぎていく。葵もあの夜の僕についてそ
  れ以上何か言ってくることもなかった。やはり、以前の僕に戻ったこと
  に安心したのだろう。
   そして今の僕は、周りに安心されること。それだけを第一に考えてい
  た。そのためには着々と進んでいくおめでたい話にも笑顔で聞くよう
  に気をつけていた。
   この、葵への説明のつかない複雑な気持ち。この感情を誰にも気づ
  かれず、悟られないように・・・・・。
   だけど、もうそんなことからも解放される。この夏休みさえ終われば、
  葵はこの家から出て行くのだ。そう考えると肩の力が抜けると同時に
  寂しい気持ちにもさせた。どちらの気持ちが強いかは、僕にもよくわか
  らない。
   ただ、楽になりたかった。

   「用意、できた?」
   開け放していたドアの向こうから葵が顔を覗かせた。
   「あんまり持っていくようなもん、ないからな」
   「ほんと、泉って物に執着心なかったよね。旅行する人の荷物だとは
  思えないよ」
   葵は僕の荷物を見て笑いながらそう言った。そんな葵に、また意地
  悪なことを言いたくなってしまう。
   「葵には苦労させられたからな。何かがしたい、なんて思うヒマなかっ
  たような気がする」
   「そんなにあたし、わがままだった?」
   「超がつくね。ま、今度から苦労させられんのは先生だからな。手加
  減してやれよ、少しくらい」
   「先生には、泉に言うように言えないよ」
  ・・・・・・・・・・・・・・。
   「先生には届かないもん。伝わんないもん。どんなに一生懸命伝えよ
  うとしたって、ちゃんと言葉じゃなきゃ通じないもん」
   それが当たり前なんだよ。言葉でだってうまく通じないこともあるのに。
   「ま、いい機会だよ。いつまでも僕が葵のそばにいる訳にもいかない
  んだから」
   「いてくれると思ってた」
   「葵」
   「本当よ。笑わないでよ。信じてたんだから、ずっと。だから今も、信じ
  られない。泉と離れて暮らすなんて」
   それは、だけど・・・・・・・・・・・・。
   「ごめん。またわがまま言ってる。ねえ泉。向こう行ったらあたし『送る』
  からさ。実験しようよ。どこまで届くか。強く念じたら届くかもしんない」
   「だめだ」
   「泉」
   「もうだめだよ。葵。お前はこれから、先生と生きてくんだから。いつま
  でも僕ばかり頼ってちゃダメなんだ」
   「何で?いいじゃない。別に。あたし達、そうやって今まで・・・・」
   葵の顔が泣き顔に変わりそうだ。思わず目をそらす。
   「・・・・・ごめん。泉。こういうとこ、直さなきゃだめなんだよね」
   ・・・・・・・・・・・・・・・。
   「明日、出てく時に駅までは送らせてよ。二人だけで、歩こ」
   「・・・・分かった」
   「じゃ、寝る。ごめんね、邪魔して。おやすみ」
   「おやすみ」
   ぱたん。静かにドアが閉まる。
   僕はそのまま床に寝転がって目を閉じた。
   分かってる。分かってる。分かってる。
   頼られてちゃだめなのは僕の方。一緒にいちゃだめなのは僕の方。
   だから・・・・・。
   ゆっくりと起き上がる。
   誰にも気づかれないように、朝早く家を出るつもりだった。葵との約
  束は守れない。
   僕は、明日着る服とまとめた荷物を部屋の隅に置いて、眠りに就い
  た。

 
   早朝の景色は、日中のあの暑苦しさを少しも感じさせないほどさわ
  やかな空気に包まれていた。
   こんなに朝早く起きたのは久しぶりのことだった。
   僕は大して重くないバッグを一つだけ抱え、駅までの道を歩いて行
  く。
   『着いたら連絡します』とだけ書いた紙を残して。
   葵はまた泣くだろうか。それとも怒るかな。
   そして、葵の『心』はどの駅で僕の元に届かなくなるのだろう。どこま
  で行っても届くのだとすれば、僕はどこまで行けばいいのだろうか。
   遠くへ。出来るだけ、遠くへ。
   葵がいくら呼んでも、泣いていても、僕を必要としていても、分からな
  いくらい・・・・・・遠くへ。
   ベンチに座って始発の電車を待つ間、僕はふと思い立つことがあっ
  た。
   そうだ。線路沿いに、歩けるところまで歩いてみよう。
   一駅、一駅。疲れたら、その近くの駅から電車に乗ればいい。
   時間はたっぷりあるのだから。
   改札を出て、線路沿いのあぜ道を歩き始める。
   ラッシュアワーにはまだ少し時間があるので、人通りも少ない。すれ
  違うのは犬の散歩をしている女の子や、汗まみれでジョギングをして
  いるオヤジくらいだ。
   荷物が軽いので、苦にもならない。僕は朝露に光る雑草を踏みな
  がらゆっくりと歩く。
   「旅行する人の荷物だとは思えない」と、葵が言ってたっけ。「物に
  執着がない」とも言ったな。
   僕が昨日葵に答えたように、葵に手がかかったせいで本当に僕が
  そんな風になってしまったのだとしたら、ここで一人になる僕に夢中
  になれるものが見つかるのだろうか。そして少しずつ大切なものが増
  えて、今度葵に会う頃にはもうひとまわりくらい大きなバッグを抱える
  ようになっているのだろうか。
   ・・・・・・・そうなっていればいい、と思った。

   鉄条網越しに、見慣れた町が見える。
  ようやく昇り始めた太陽の彼方。
  僕は顔を上げて歩き始める。
  体の一部を残して行くような感覚に・・・・・・・・囚われながら。

                                     <fin>   

  

 

  

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