4匹の猫の子 行く末案じる 8/2 54才
   
投稿人宅の近くのコンビニで、4匹の子猫が生まれたのだそうだ。母親も育児放棄
   状態で、草の中で暑さをしのいでいるのだとか。
   このまま、「どなたか飼って下さる方を探しています」とかいう流れになるのかと思っ
       たが、違った。いきなり投稿人の話になる。

       「私の家には生後3ケ月の猫がおります。子供ですので、子供たち
     を連れて帰るととっても怒って仲良く暮らすことができません。家は広
     いのですが、子供の心が狭いのです。」

      いや、だから、飼い主を探したいんだろう?だったら最初にそうハッキリ書いて、自分
      が飼えない事情を書いたらいい。特に最後の一文は余計。そして更に、

      「保健所に相談すると、犬は捕獲できるけど猫はできないと冷たく言わ
    れ、はてどうしたものかと困っております。」

      いや、だからあ。飼い主を探したいんでしょ?はてどうしたものか、なんて書く間には
     ハッキリとそう言えばいい。

      この後、話はまたまた投稿人の以前飼っていて不幸にも亡くなってしまった猫に移ってい
     る。そしてこの子猫達に話は戻り、最後に、

      「心ない飼い主に捨てられた不幸な猫たちに、幸多かれと祈るのは私
    のかなわぬ夢でしょうか。」

  せっかく、こうやって「ちまた」にまで投稿していて、掲載される可能性も高い投稿ネタなの
     に、どうしてそういう部分をハッキリと書かないかなあ。
  私の一番嫌いなパターンだ。自分からはハッキリと言わず、ほのめかしておいてそれが伝
     わりますように、と願ってたりして。伝わるか、そんなもん。
  もちろん、この文章を読めば「飼い主を探してるんだな」ということは分かるし、この「ちまた」
     の読者は親切な人が多いようなので、ちゃんとその想いを汲んでくれる人が殆どだと思うが。
  とりあえず、私は投稿人に、
  「??結局、どうしたいの?飼い主を探したいの?」とわざと聞き返したいところではあるが。

    「 心の相談所兼喫茶店」考えて 8/2 56才
  
 先日、山陽新聞にも掲載されていたが、昨年の自殺者が4年連続で3万人台に上ってい
     ることをあげている投稿人。投稿人自身の年代の自殺者が多いことも関係しているのだろう
     が。
      そして、昨年末に自殺予防のフリーダイヤル電話が一週間ほど開設されたのだとか。し
     かも、その後はこの種の電話が開設されたことも聞いていないのだそうだ。
      自殺する人は電話をかける余裕はないかも知れないが、そこまで至らない人を助けるため
     にも、

     「私は街角に気軽に入れる「心の相談所兼喫茶店」があったらいいなと
    思う。」

     その理由は、職場でのカウンセリングは同僚に知れる。こういう場所なら、コーヒーを飲む
      つもりで訪ねることができる。とあるが、果たしてそうか。

     確かに、職場のカウンセリングは抵抗があるだろう。しかし、例えばそういう場所を開設したと
    してもやはり行きにくいものだと思うが。ましてや、職場のカウンセリング同様、そこに出入りし
    ている姿を見られると思うと、余計だ。
     ここはやはり電話が一番気楽だろうな。しかし、50〜60才台の男性かあ。本当に人知れず
    悩んでいそうだな。人に話せば難なく解決できることでも、心の奥底でめちゃめちゃ悩んでい
    そうだ。
     その点、オンナは大抵悩みは人に打ち明ける人が多いから、どこかで解決できているのだ
    ろう。
     自殺できる勇気があるのだから、そこでどうして気持ちが切り替えられないかなあ。生きてる
    としんどいのは当然なんだけど。

  心を打たれるおばちゃんの姿 8/3 52才
 
  52才の投稿人。母親のイトコだという叔父を「おじちゃん」、その奥さんを「おばちゃん」と呼
    ぶのは結構だが・・・。文字数の限られた投稿文の中にどれだけ出てくるのか。ちょっと気に
    なった。まず冒頭から。

    「休日の朝、(中略)根っから働き者のおばちゃんの姿があった。」

   「一番悔しいのは、毎年この田にたわわな穂を実らしてきたおばちゃんだ。」

   「昨年の今ごろまでは、(中略)外の移ろいを眺める母のいとこにあたる
   じちゃん
の顔がうかがえたものだ。」

   「おじちゃんは30年ほど前の事故以来、勤めができず、(中略)その上、看
   病のおばちゃんまでが交通事故で(以下略)」

   「おばちゃんの姿が見えなくなった理由など知る由もなく、おじちゃんは亡
   くなった。」

   「おじちゃんの事故以来、柱となり、勤めをし、(中略)定年後はおじちゃん
   の声の届く所で面倒を見てあげた。」

   「健康に留意して(中略)のんびりしてね、おばちゃんおじちゃん、見守
   ってあげてよ。」

   連呼状態である。3つ目までは、あまり気にならなかったが、それ以降、「いつまでおじちゃん
   おばちゃんと書き続けるのだろう」と思い始めたら、投稿文からこの2単語だけが浮かびあがっ
   てきたくらいだ。
    せめて、最後に挙げた程度にして、それ以前は叔父、叔母と書くべきではないか。実際そう
   呼んでいて、親しみやすさは確かに出ている。しかしそれが多すぎて内容が頭に入らないの
   だが。
    それと、もう一つツッコミたい文章アリ。そこにも「おばちゃん」が登場していることも付け加え
   ておく。

    「私なんかこの年になっても老いた両親に甘えっぱなし。自信はないけど、
   将来介護を要するようになったら、おばちゃんの知恵を拝借しよう。その時
   はどうぞよろしく。」

    その上、まだおばちゃんに甘えようと言うのか。「その時はどうぞよろしく」て・・・。両親が老い
    ているなら、その時点でおばちゃんも老いているのだろう。頼りにしていいのか。と言う気もす
    るが。

    ついでに書くが、この投稿人、「介護を要する」だの「健康に留意して」だの所々急にパンフ
    レットのような説明文になるのも笑えたな。その前に「おじちゃん、おばちゃん」を何とかして
    やれ。 

  ビジネスマンも帽子をかぶろう 8/9 61才
    連日厳しい暑さが続く中、女性は帽子や日傘を利用しているが、スーツ姿の男性が帽子もか
   ぶらず汗だくで炎天下を歩く姿が気になったという投稿人。
    投稿人の明治生まれの父親はカンカン帽をスーツの時も着物を着た時もかぶっていたそうだ。
   なかなかイキな人だったのだろうと思うが。

     「ぜひともかっこいい帽子を考えて、みんなかぶるようにしたらいかがで
   しょう。」

   しかし、冷静に考えたら、スーツに帽子。これは結構難しいものがある。ヘタをすれば皆、昔の
   マンガに出てくる詐欺師やヤクザのようになる恐れがあるからだ。
    それと、帽子も大事だが、個人的にはスーツが年中長袖しかない、というのも気になっている
   のだ。羽田元首相ではないが、スーツの半袖もアリにした方がいいのではないか?と思うが。
    いや、大丈夫。最初はヘンでもそのうち慣れるもんだ。(先日TVで久々に見た羽田さんは相
   変わらず半袖のスーツであった。感動した)

    スーツに帽子、ねえ。永遠のテーマだな。多分。

  特に気になる言葉の使い方 8/9 62才
 
  新聞や雑誌を読んでいて、気になる言葉使いがあるという投稿人。特に、「恐らく」と「憮然」
    の使い方ということで、詳しく書かれている。

     「おそらく」は言うまでもなく動詞「恐る」からの派生語であり、望ましくない予想を立てる時に
    使う。その予想が当たることを恐れるという意図が含まれているはずだという投稿人。だが、実
    際は

    「子供たちの期待通りに明日も恐らく晴れるでしょう」

    などの使い方はしょっちゅう見られるのだそうだ。

     なるほど。言われてみれば変だ。「多分」という意味合いで使っている人も多いと思う。もち
    ろん、私も。それと、

     「憮然」の意味は「しょんぼりした様子」である。先日の山陽新聞にも

    「星野監督、憮然とした表情」

    とあったが、内容を読めばしょんぼりした表情という意味ではなく、「憤然」(怒る様子)という
    意味で使われていたようだ、とのこと。
     もっとも、星野監督がまさか人前で「しょんぼりする」はずもないので(想像したら笑えるが)
    投稿人の指摘通りなら、新聞紙上でも「憮然」を「憤然」と混同して使われているようだ。

     私も、この投稿を読むまでは「憮然」を「ムッとする」という、怒りを表す言葉として使ってい
    た。もちろん、UPしている小説の中にもこの表現はあるはずだ。
     教員である投稿人も、自分で自分だけの勘違いでは?と思うほど間違って使われている言
    葉だそうで、これについてどなたかの意見を頂きたい、とも書かれている。
     これが本当ならばすぐに自分の頭の中で「憮然」を「憤然」と変換しとかないとな。

     余談だが、間違っている使い方なのに、何故かすっかり定着してしまった言葉がある。
    「全然」だ。
     全然、大丈夫。
     よく使う。しかし、「全然」は全否定なのだ。なのに、「大丈夫」という肯定する言葉を持ってく
    るのはおかしい。どっちやねん、ということなのだ。
     なのに、こういう使い方をする時はすっかり「全然」=「全く」という意味にシフトされ、「全然、
    大丈夫」は「ノー・プロブレム」という意味になってしまった。
     自分自身使うこともあるが、そのたびに、「ああ、また言ってしまった」 「これで最後にしよう」
    「このままではダメな人間になる(ウソ)」と心が痛む言葉でもある。

  目標を立てて有意義な休みを 8/15 中3
 
 「みなさんは、この夏休みという長い休みを、どのようにお過ごしですか?」と問い掛ける投稿
   人。そういう本人は、「外はとても暑いので出る気にならず、部屋の中でクーラーをかけて漫画
   を読んだりテレビを見たりしています」という、なかなかなダラダラ生活を送っているようだ。更に、
    宿題はたくさんあるのにやる気にならず、かといって他にやりたいことも見つからないのだとか。
   投稿人自身、こんな生活ではいけないと分かってはいるのだが、なかなかその一歩が踏み出せ
   ずにいるのだそうだ。
    で、どうするんだろうなあ、冬休みこそはと目標を立てるのか?と思いながら、次の一文。

    「だから、私はこの夏休み、「家の手伝いを毎日する」とか、簡単なことでも
   いいから目標を持ち、その目標にちょっとでも近づけるように、毎日努力して
   いきたいです。」

   ・・・ってなあ、投稿人。すでに夏休み、2週間ほどしかないのだが。1ケ月近くもダラダラと過ご
    しておいて、いきなりその目標はなんだ。まるで夏休みの初めに誰もが立てる目標そのもので
    はないか。
     しかも、例えとはいえ「家の手伝いを毎日する」という目標にちょっとでも近づけるようにって・
    ・。どういう風にちょっとずつ近づけばいいのだろう。例えば、洗濯物くらい自分でしよう、と目
    標を立てるとする。それに少し近づく、というのはどういう行動なのだろうか。洗濯をしようと思っ
    て、洗濯物を手にとって、それでやめる。これもその目標に少しでも近づいたことになるのか。
     目標を立てた以上は、それに近づくように努力するのではなくて、実際にそれをしなければ
    意味がないだろう。と思うが、どうか。
     どうでもいいが、この投稿人、ちまたに投稿しただけで満足しているような気がする。掲載さ
    れたことでこの夏休みの目標は全て達成されたことになっていないか?
     と、少し気になった。

 

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