昨夜の客は、父親と同じくらいの年の男だった。
  いつものバーで待ち合わせをし、そこで軽く飲んでホテルのベッドに
  入った。
   男はわたしのようなデート嬢を呼んだのは初めてらしく、最初は戸惑
  い気味に何度も『いやあ』などと言って頭をかいていた。
   『こんな若い子が本当に来るとは思わなくて』と何度も言う。
   わたしの体に触れながら『同じ年くらいの娘がいるんだよなぁ』と一言、
  つぶやいた。
   よくある話だ。今まで何度聞いたか分からないくらい、同じようなプロ
  フィール。
   今更、どんな話を聞いたって、心は動かない。
   同情したフリをして、優しいフリをして、慰めてあげるだけ。
   ほんの少しの時間を我慢するだけで、そしてそれを「数回」繰り返す
  だけで、毎日毎日朝早くから起きて、ラッシュの電車に揺られて、遅い
  時間まで退屈なオフィスで過ごす。そんな1ケ月分の報酬を軽く越えて
  しまうのだ。今更やめられる訳もない。しかも、「我慢」も最近では我慢で
  はなくなってきている。かなり嫌いなタイプの男でなければ、嫌なことと
  は思わないのだ。

  
   わたしは、全ての男に気に入られるように、自分の身なりだけ構って
  いればいい。難なく手に入る高級ブランド品。エステティックサロンで
  爪の先まで全身を磨く。
   わたしが相手をした客全てに、気に入られるように。
   わたしの努力は、わたし自身を磨くこと。それだけでいいのだ。

  
   その日は、朝から雨が降っていた。
   5月の夜の雨は暖かく、ただ降り続いていた。
   わたしは客との待ち合わせのため、いつものバーへ向かっていた。
   その客は、1週間に1度はわたしを呼ぶ、言わば固定客だった。年
  は、30代半ば、と言ったところか。
   一見ちょっと怖い感じに見えるが、笑った顔がたまらなく優しい男
  だ。
   結婚はしているみたいだが、詳しくは知らない。着ているスーツや
  持ち物を見る限りでは、かなり羽振りはよさそうだ。まあ、そうでもなけ
  ればそう安くもない女を1週間に1度は買わないだろうけど。

   ネオンが灯りはじめた夜の街を歩く。派手なスーツ、ハイヒール。
   同じような格好をした女達も、雨の中、それぞれの目的地へと向か
  う。
   わたしは店の重いドアを開けた。マスターがにこりともせずわたしを
  見て、そして店の奥へと視線を移した。
   私が所属する店(と言っても店舗は構えていないが)のオーナーと、
  この店のマスターは夫婦だ。その関係で、客との待ち合わせは大抵
  この店を使うことになっていた。

   店の奥には、いつものように彼が素知らぬ顔をして煙草をくわえて
  いた。
   大抵の男は、女を買うことに慣れてくると外ではこんな風に知らん顔
  をしている。女を買ってしまうことの居心地の悪さがそうさせるのか、
  愛想を良くしたところでやることは同じだ。そのことが分かっているか
  らなのか、その両方だろうと思うが、殆どの男はわたしにとても冷た
  い。だが、わたしはそれを腹立たしくは思わない。一旦ベッドの上で
  二人きりになると、このつんとすました顔の男がどんな顔をして、どん
  な声を出し、どんな息を漏らすのか、わたしはよく知っているのだ。

   だからわたしは平気な顔でぞんざいな扱いを受け続ける。お望み
  ならば辛そうな顔もしてあげる。
   お金を払うのは彼らだ。しぶしぶ払ってもらうよりも喜んで払っても
  らった方がまだ救われる。そして、彼のような固定客を何人も作る方
  が結果的には稼げるし、安全なのだ。

   
   わたしがマルガリータを飲み干したところで、彼が席を立った。わ
  たしも後に続く。相変わらず無表情のマスターの前を通り過ぎ、わた
  したちは店を出た。一つの傘を分け合うこともせず、別々の傘で、付か
  ず離れずの距離で。どうせなら、彼が取ってあるホテルの部屋にわた
  しが出向いた方がいいのではないか、と思うのだが、彼はこういう方法
  をあえて取る。
   待ち合わせた時からすでに彼の行為は始まっているのだ。だから
  わたしは、あえて彼の望み通り、彼の顔色をわざと伺いながら無言で
  従う。どうすればいいか分からないと言った様子で。

  
   ホテルはいつものように高級なホテルだ。広々とした吹き抜けのある
  明るいロビー、1Fにあるラウンジの生演奏のピアノの音が微かに聞こ
  えてくる。客の殆どが、普通のビジネスホテルか、ラブホテルを利用
  する中で、固定客となっても未だこういうホテルを選ぶところが、彼を
  気に入っている大きな理由なのかも知れない。
   チェックインを済ませた彼の後に並んで、エレベーターを待つ。す
  ると、隣のエレベーターのドアが開き、中から出て来た一人の男と目
  が合った。
   もしも、わたしの方がそのひとに気づいたのがもう1秒でも早ければ
  、一瞬で背を向けて立っていただろう。だけど・・・・・。
   そのひとは、そんなわたしの目に見えない躊躇に気づかず、一瞬
  目を止め、そしていかにも懐かしそうに、そして意外そうに声をかけ
  てきた。
   「原・・・・。だよね・・・?」
   前に立っていた彼が少し驚いてわたしを見る。彼がわたしの顔を見
  たのは今日これが初めてだな、と思いながら、わたしは目だけでその
  ひとに笑って見せた。それが今のわたしに出来るせいいっぱいのこと
  だった。
   その時、目の前のエレベーターが開き、わたしは彼の後に続いた。
  そのひとの意外そうな顔を残したまま、ドアが閉まる。
   「誰、さっきの」
   彼が無表情のままわたしに聞いた。買った女とはいえ、やはり面白
  くないものなんだろうか。部屋に入る前に彼が私に口を開いたのもこ
  れが初めてのことだった。
   わたしは彼を無視して、部屋の前に立つ。彼は持っていたカードで
  キーを開け、わたしを部屋に入れた途端、わたしの長い髪を引っ張り
  、突き飛ばした。
   「言えないような奴なのか?」
   「・・・同級生なんです。中学の時の・・・」
   頬を打つ。
   「へえ。まさかそんな同級生がこんなことしているなんて思わないだ
  ろうなあ」
   彼はそう言ってわたしを乱暴にベッドに倒すと、履いていたパンテ
  ィストッキングを引き裂いた。
   さっきのあのひととの再会は、彼にとって強い刺激になったらしい。
  わたしはいつもより荒々しい彼に身を委ねながら、ほんの7年前のこと
  を思い出していた。

   
   桜。
   あのひとのことを思い出す時、いつも桜の木の並ぶグラウンドが浮
  かんでくる。
   久保くん。
   その名前を呼ぶ時、いつもわたしの心は浮き立った。
   笑いながら、怒りながら、泣きながら。
   14才の、そのままのわたしがいた。照れくさそうに立ってるあなたが
  いた。
   卒業式の後の教室で、あなたが言いかけた言葉の続きは同級生
  にさえぎられたままだった。聞き返したわたしの言葉も、宙に浮いた。
   それからずっと会えないまま、わたしたちは今日、出会ってしまっ
  た。
   もう、会うこともないと・・・思っていた。
   会っても気づかれないと、思ってた。
   どうして、わたしだと、分かったの・・・?
   どうして・・・・。
   白いままのわたしの心が、あのひとのことでいっぱいになる。
   少しも変わってなかった。久保くん。
   わたし、変わったでしょう?
   あなたの想像もつかないような生活、してるの。
   止まってしまっていた時間が、一気にあの頃へと流れ出す。
   あの頃のわたし。そう。確か、夢があった。
   
   保母サンニナリタイ。
   
   年が離れている妹の面倒をみながら、漠然とそう思ったことがあ
  った。
   どうして、諦めてしまったのだろう・・・?
   
   男の動きは更に激しくなり、わたしも何も考えられなくなってくる。
   どうして。
   どうして。
   どうして・・・・?

   力尽きて、覆いかぶさってきた彼の汗だくの背中を優しく抱き締
  める。
   いくら何も感じなくなった、とはいえ、ここまで集中できないことは
  今までなかった。
   「ごめんなさい。・・・今日、お金いらないから」
   「今、そんなこと言うなよ」
   「だって」
   彼はわたしから身体を起こすと、仰向けになってわたしの肩を抱
  いた。
   手荒に扱っても、SEXの後だけは彼は優しい。憑き物が落ちたか
  のようだ。彼はわたしとこの時間を過ごすことで、バランスを取ってい
  るのかも知れない。そう思えた。
   わたしの赤くなった頬を、人差し指で優しく撫でる。
   「何、考えてたの」
   「・・・・・・別に」
   「さっきの、男のこと?」
   わたしは小さく笑った。
   「ずっと会ってなくって・・・急に会ったから、びっくりしたの。いろい
  ろ思い出してしまって。すみません。今日ほんと、いりませんから。
  お金」
   起き上がって、シャワーを使うべくバスタオルを巻き付けたわたしに
  彼は言う。
   「いろいろって?」
   「いいじゃない、もう」
   彼の手を優しく払って立ち上がる。数ケ月の付き合いとは言え、自
  分の昔のことまで話す気にはなれなかった。彼はつまらなそうにベッ
  ドに寝転んだままだ。それを気にもせずに、わたしは少し熱めのシャ
  ワーを浴びた。
   この瞬間が一番好きだ。終わった後の開放感、というのだろうか。
  なんだ、結局は仕事に嫌悪感があるんじゃないかとそこで気づき、
  少し笑った。
   化粧を終えると、わたしは彼が差し出したお金も受け取らずに部
  屋を出た。もう、彼からは指名がかからないかもしれない。それはそれ
  で仕方のないことだった。わたしは仕事として報酬をもらえる以上、
  それなりの仕事をしなければならない。それが今日は出来なかった。
  それだけのことだ。
   エレベーターが1階で止まる。1歩踏み出したそこは、まさに1時間
  前にわたしとあのひとが出会った場所だった。
   不思議な感覚だ。
   時間も何もかも飛び越えて、あのひとは一瞬でわたしを7年前へ
  と連れ戻してしまった。
   そしてわたしは、今もその空間から完全に抜け出してはいない。
  出会ったことで、わたしは今までそう深く考えてもみなかった今の
  わたし自身のことを、考え続けている。
   もちろん、この仕事を後悔しているわけではない。これはわたし
  にとって生きて行くひとつの手段でもあるのだから。
   だけど。
   『原ナラ、似合ウンジャナイ?』
   保母になりたい、と打ち明けた時、久保くんはそう言ってくれた。
  今日出会った、あの、笑顔で。
   人けの殆どない広いロビーを歩き、回転扉の外に出る。
   雨はまだ降り続いていた。わたしも傘をさし、歩き始める。   
   PP・PP・PP・PP・PP・PP・PP
   携帯にオーナーからのメールが入る。
   仕事だ。
   週末ということもあるのだろう。今日は少し忙しい。
   わたしはタクシーを止め、ここから15分ほどの距離にあるビジネ
  スホテルの名前を告げて、シートにもたれた。
   タクシーは滑るように走り始めた。
   窓ガラスを雨が叩いては消えていく。溶けるように流れる夜景を
  眺めながら、久保くんの笑顔を思い出していた。
   久保くん。わたし、保母さんになりたかったんだよね・・・・。
   一人つぶやいた言葉は、雨音とラジオの音にかき消された。た
  だ、残ったのは。

 

   桜。
   桜の木が並ぶグラウンド。
   卒業式のあとの教室。
   あなたがあの日、言いかけた、言葉・・・・・・。

  

                                      FIN

 

  

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