心の中に 、止むことのない風が吹いている。
  

  乾いた、熱い風。
  

 君に出会うまで、僕は本当の自分を知らなかった。
  

 自分の中に、こんなに熱い風が吹いていることも、
 

僕自身、乾ききっていたことも。
  

 

    

 砂 漠 の ベ ッ ド

 

 

 当たり前のように結婚して、子供を育てて、そうやって毎日が続いていくのだろうと思っていた。そう、信じていた。
  

 隣には、妻と娘が寄り添うように眠っている。  
  

 僕に全てを預ける、穏やかな寝顔だ。
  
  

 僕は二人を残し、ベッドの隅の煙草を取って部屋を出た。
  

 居間の灯りもつけずにカーテンを開け、煙草に火をつけて夜を眺めた。
  

 君は眠っているのだろうか。それとも、僕のように眠れない夜を過ごしているのだろうか。
  

 智美。
  

 こんな風に人を思うなんて思ってもみなかった。何よりも大切に、誰よりもいとおしく。
  

 妻----紀子が僕にとっての最後の恋人のはずだったのだから。
  

 もう引き返せない旅だ。最後にたどり着くオアシスが君だったら、と強く思う。でも・・・・・。
  

 煙を深く吸って、ため息と共に吐き出す。
  

 僕は考えるのをやめて、カーテンを引いた。

  
  

 君が、ガラス越しに手を振った。
  

 マネキンに、夏の洋服を着せている。その服は、マネキンよりも君に似合うな。
  

 そう思いながら、僕も手を振り返した。
  

 あの店----"Hearb"はこの駅前でも特にセンスの良さを感じるブティックだ。地下鉄を降りて、毎日の行き帰りでこの店の前を
 

 通る。

 季節ごとに鮮やかに変えられる洋服や、それに合わせてディスプレイされる小物のセンスの良さは、僕のようなアパレル・メーカーの営業マンとして

 も、目を引かずにはいられない店の一つでもあった。
  

 そして、同じように、目を引かれる一人の女性がいた。それが智美だった。
  

 その店を見ていて彼女を見つけたのか、彼女を見ていてその店を見つけたのか、今となってはどちらが先だったかは分からない。

 とにかく、その日から僕は彼女の姿を見るのが日課となってしまった。
  

 肩までの髪に、緩やかなカールが歩くたびに肩先で揺れる。
 

 年はいくつだろう。意思の強そうな、だけど丸い瞳は可愛らしい印象を与える。着てる服はちょっと派手かな。

 たまにドキッとするような大胆なデザインの服は、あの子にはちょっとアンバランスな感じだ。
  

 など、見ないふりをしていろいろな空想を頭に浮かべていた。
 

 もちろん、当の彼女はそんなこと気づいちゃいない。毎日、鮮やかに僕の前を通りすぎるだけだ。
  

 僕だって、それ以上のことは何も望んじゃいなかった。
  

 事実、僕には産まれたばかりの娘、美咲がいたし、何より妻のことを大切に思っていた。
  

 そう。あの頃は。


  

 初めて君と話をしたときのこと、覚えてる?
  

 覚えてるわよ。だって、ヘンなんだもん。
  

 ヘンって、何が。
  

 だって、いきなり呼び止めといて『服、売れてます?』って言うんだもん。おかしいわよ。
  

 いや、だから、僕はアパレル業界の営業マンとして今の現状を知りたかったんだから、いいじゃないか、別に。
 

 何だろうなあって、おかしかった。
  

 本当は、めちゃめちゃ緊張してたんだ。後から冷静になって自分でも恥ずかしかったよ。
  

 でも、あれからお互いに挨拶するようになったんだよな。
  

 あの時は、あなたが結婚してるとか、そんなこと気にしてなかった。
  

 僕だって。君のことずいぶん年下だと思ってた。
  

 私、あなたと話をちょっとずつするようになってから、いつ自分が結婚してるってこと言おうかと思ったわ。

 この人、多分カン違いしてるって。
  

 してた、してた。
  

 あの時のあなたって、私のことをどう思ってたの?ずっと不思議に思ってた。
  

 何だったんだろうな。・・・多分、君と何とかなったらいいなって思ってたんじゃないか?
  

 奥さんと子供がいるのに?
  

 ・・・・・・・・・・・うん。


  

 

 可愛い可愛い僕の娘、美咲は日ごとに成長していく。妻は美咲の世話に追われて、僕のことを気に留める様子もない。
  

 もともと紀子は不器用な女で、二つのことを一度にできる女ではない。結婚と同時に仕事もやめ、家事だけに専念して子供が
 

 できると育児に一生懸命で、僕のことまで手が回らなくなっていた。

 僕の方も『それは仕方のないことだ』と思い、不満はあったが一生懸命子育てをしている妻を見ているとそんな気持ちも無理矢理閉じ込めるしか 

 なかった。
  

 そんな僕の気持ちは、君によって解き放たれたのかも知れない。
  

 君の方も、満たされていたならば振り向いてなどくれなかった、と思う。事実、君のご主人は仕事が忙しすぎて留守が多く、しか
 

 も子供もいない君はいつも寂しい思いをしていたのだから。
  

 そんな二人が、出会ってしまったのだ。そう、まるで・・・引き寄せられるように。

 
  

 何、急に笑ったりして。
  

 ううん。何でもない。
  

 何だよ。
  

 不思議だなって・・・思って。私、まさか結婚してからこんな恋愛すると思ってたから。信じられない。
  

 そりゃ、僕だって。
  

 あなたが悪いのよ。
  

 僕のせいじゃないよ。
  

 だって私、余計なこと思い起こされた気がするわ。
  

 何、それ。
  

 あのね、ヘンなんだけど、あなたとこうやって・・・手をつなぐでしょ。そしたら何だかドキドキするの。楽しくなるっていうか・・・。
  

 へんね。こんなの。あの人には全然こんなこと、思わないのに。

  

 結婚すると、家族になる。と誰かが言っていた。家族には誰も、他人に感じるような『ときめき』はない。
  

 「恋人」も結婚して「家族」になると、どうしても今までの感情は薄くなってくる。
  

 だから、ほら。「恋人同士」の僕たちはこんなにお互いを愛しく感じられるのだろう。


  

 

 結婚、早まったと思わない?
  

 私より、あなたの方が結婚が早かったのよ。私が結婚してなかったとしても、あなたとは不倫になっちゃうわ。
  

 あ、そうか。
  

 あなたは・・・。今の奥さんと結婚してなくっても、きっと別の人と結婚してるわ。そしてやっぱり私に声をかけるのよ。
  

 意地悪だな。
  

 だってそうでしょ?あなたが結婚してから私に出会うまで5年も間があるのよ。私はたったの1年だわ。
  

 じゃ、君に会うまで結婚しないよ。
  

 ウソ。そんなこと、出来るわけないわ。
  

 しないよ。

  

 

 安らぎ、ぬくもり。素直に愛してると思う気持ち。
  

 ここには、僕が望む全てがある。
  

 限られた時間を、惜しむように僕たちは過ごす。
  

 狭い部屋で、車の中で、誰もいない静かな海で・・・。
  

 いつも君は僕に寄り添い、ぎりぎりの時間まで僕から離れない。
  

 だけど僕たちは、それぞれに別の愛も知っている。
  

 時間がくれば、そこに帰らなければならないと言うことも。
  

 お互いに想えば想うほど、隙間を縫うような恋をわずらわしく思う。
  

 何もかも投げ出してしまいたい衝動に駆られる。
  

 だけど僕には、突然泣き出す君を、抱きしめることしかできない。
  

 そんな顔、しないで欲しい。いつだって、君のそばにいるから。
  

 君のそばに・・・・いるから。


  

 

 いつもの待ち合わせの場所で、10分遅刻した僕を見つけて、ホッとしたような笑顔で僕の胸に滑り込んでくる。
  

 思わず周りを気にする僕の頬を、意地悪く笑いながら君がつつく。
  

 君の笑顔は何よりも僕を安心させる。
  

 何だかやけに幸せな気持ちになって、小さな体ごと抱き寄せる。
  

 こんな恋愛をする僕たちは、やはり裁かれなければならないのだろうか。
  

 こんなに幸せなのに?こんなにお互いを必要としているのに?
  

 どちらが大事かと聞かれたら、多分答えられない。
  

 分からない。
  

 どうして一つの未来しか選べないのだろう。
  

 智美を大切に思うことが、なぜ罪になるのだろう。

  

 

 紀子が倒れたのは、突然のことだった。
  

 原因は過労。もともとそう体が丈夫でない上に、娘の育児のストレス、そして本来ならばそれを助けてやるはずの僕は智美と会う
 

 ためにここのところ残業だと言って、帰宅する時間も遅くなっていた。
  

 幸い、紀子は一晩で病院から帰れたのだが、このまま僕もいつもの生活を続けているわけにもいかない。智美には携帯電話で
 

 簡単に説明をし、電話を切った。
  

 智美に会えない夜は長く、まるでどうかなってしまいそうだった。
  

 紀子が眠ってしまってから、何度君のそばに行きたいと願ったことだろう。携帯電話でのメールのやりとりも、ただむなしくなるばかりで、僕は

 とうとう電話の電源を切ったままにしてしまった。
  

 声を聞けば、会いたくなる。
  

 会ったら、抱きたくなる。
  

 抱けば、帰れなくなる。

  

 

 

 でも、今の僕は紀子を・・・そして娘を置いて行くことさえもできない。そして、君をご主人から奪い去る勇気。
  

 それさえも自信が持てず、全てを壁に閉ざされたまま、僕はただ毎日を過ごしていた。


  

 

 仕事からの帰り道、いつもの駅に向かう。
  

 あれから僕は智美を避けるように、『Hearb』の前を通らない道を選んでいた。
  

 こんなことを続けていてどうなる。
  

 急に連絡が取れなくなり、姿を見せなくなった僕を智美はどう思っているだろう。
  

 哀しそうな顔が浮かぶ。そして、決まってその後微笑む顔も。
  

 ため息をつきながら駅の階段を上がりきると、そこには、あの困ったような笑顔が・・・・・あった。
  

 「智美・・・・・・・」
  

 「ごめん、こんなとこで」
  

 本当は。
  

 本当は、ここですぐに抱きしめたかった。
 

 人目を気にしなくていいのなら。
  

 「姿、見えなくなったから、ずっと仕事も休んでたんだと思ってたの。こっちから電話もできないし」
  

 「ごめん」
  

 僕たちは、駅のベンチに並んで座った。
  

 午後9時の駅は人影もまばらだ。
  

 「いいのよ。気にしないで。奥さん、よくなったの?」
  

 「うん。まあ・・・。ずっと、待っててくれたの?」
  

 「ごめん。迷惑かけたくなかったんだけど、あたしも気になって仕方なくって。いてもたってもいられなかった。ごめんね、こんな
 

 ことして・・・・」
  

 分かってる。
  

 僕を困らせることは絶対にしない君だ。そしてそれは逆に、この恋を割り切っているということが見え隠れしていた。

 家族を捨てることまで考えている僕とルールをきちんと守れる君。そんな君に苛立っていた日があることを、君はどこまで知っているのだろうか。
  

 そう思うと半ば強引になり、僕は智美の腕を引いて駅を出た。
  

 向かう場所は、一つしかなかった。


  

 

 のぼりつめたこの恋は、後は転がり落ちるしかないのかも知れない。
  

 運命も神様も、僕はもう信じていない。
  

 自分がどっちに進もうとしているのか、今は何も考えたくなかった。
  

 ・・・・・・・・抱きしめておくれ。
  

 転がるほど、激しく。
  

 お互いをこんなにも求めるのが罪ならば、どんな罰でも受けよう。
  

 君と出会ったことが間違いならば、どんな真実も信じない。
  

 地獄に落ちてもいいよ。
  

 こんな砂漠の中で、砂まみれになって抱き合う僕達には、もう何の答えも証も必要なかった。
  

 ただ、お互いがいれば、それでよかったのだ。


  

 

 君は、世界が終わりそうな顔で僕を見る。
  

 細い指が、濡れた僕の頬を拭う。
  

 ああ、気に・・・・・しないで。
  

 涙なんかじゃないよ。何でもない。
  

 このままで、こうしていてくれ。
  

 触れ合うまつげまで・・・・・離したくないよ・・・・・。

  

 

 辛い夜が幾度も過ぎていく。
  

 何度口づけを交わしても、どんな言葉を囁いても、お互いに捨てられないものがあるということを、僕達は痛烈に感じとっていた。
  

 守るべきものを守りたいと思い、届かないものをあきらめることもできない。欲張りな僕達には、大人の恋などできるはずもなかった。

 
  

 約束・・・・・・・・・・。
  

 次の?
  

 うん。いつ?
  

 金曜日にしよう。仕事が早く終わるし。映画にでも行こうか。
  

 じゃ、いつものところね。
  

 うん。
  

 車から降りて、手を振る君がいつもより小さく見えた。僕は特に気にもせず、アクセルを踏んだ。
  

 そしてこの夜が、君が僕を見つめた最後の夜になった。

  

 僕達は、これほどまでにあっけない関係だったのだろうか。
  

 君が店を辞めてしまえば、もう僕には君を探すあてなどどこにもなかった。考えてみれば、君が住む町のことも知らず、携帯電話だけで自宅の電

 話番号さえも知らなかった。

 その携帯は案の定かけてもつながらず、思い切って尋ねた『Hearb』の店長は、不審そうに僕を見た後で、『急にやめた人のことなん
 

 て』ととりつくしまもなかったが、何とか電話番号を聞き出すことができた。プッシュボタンを押しながら、指を止める。そして、思わず、笑ってしまう。

 電話番号が分かったところで、どうするというのだ。居場所が分かったところで、訪ねて行こうとでもいうのか?
  

 ばかな。あいつの立場を考えろ。そして、自分の立場を。それを捨てることができなくて、智美は僕の前から姿を消したんだ。
  

 どちらも選べなかった僕の代わりに。
  

 灯りもつけず、薄暗い部屋の中で僕は役に立たない電話の前に立っていた。
  

 不意に、背中から抱きしめられる。
  

 「紀子?」
  

 振り向くと、そこには少しはにかんだように笑う妻の姿があった。
  

 「ありがと」
  

 「え」
  

 「いろいろ、迷惑かけちゃったね。でも、もう大丈夫だから」
  

 「あ、・・・うん」
  

 ここで紀子を抱きしめてやるのが夫でもある僕の努めかも知れない。だけど、今の僕にはどうしてもそれができなかった。肩をそっと抱いて、紀子を

 一人残して部屋を出た。
  

 不意に、智美の笑顔が浮かぶ。
  
 笑うと幼く見えた君。寂しがりやで、頼りなげで、そのくせ芯が強くて、言い出したらきかない。そして何よりも君の胸は、どこよりも安
 

 心できる場所だった。
  

 智美。智美。智美・・・・・・・・!
  

 誰か、僕の涙を止めてくれ。夜の闇が僕を包んでしまう前に。
  

 ・・・・・智美。
  

 僕のオアシスは、間違いなく君だったんだよ。  

 

  

 

 

 『サヨナラ』

  

 

 一番聞きたくない言葉が、僕の胸で響いた。


 

 

  「パパー。はやくう。こっちー」
  

 やっと走り出した美咲が、道路の向こうで手を振った。
  

 僕は、一人でどこまでも行こうとする美咲をたしなめながら道路を渡る。
  

 全く。目を離すとすぐこれだ。どっちに似たんだか。
  

 紀子は『あなたに似たのよ』と言って笑うけど、僕はもっとおとなしい子だったんだからな。僕のせいじゃないぞ。
  

 美咲の手を引いて、駅から家までの道を歩く。
  

 あれからもう、2年が経とうとしていた。
  

 彼女とはもう会うこともなく、携帯電話の番号も消してしまった。
  

 そして僕は何事もなかったように今までの生活に戻った。
  

 娘も大きくなり、日増しに可愛さを増して行く。
  

 僕があれほど深い思いを残す恋をしたことを、紀子は結局知らない。紀子にとってはただただ平穏な結婚生活が続いているだけだ。

  

 時が流れるにつれて、僕の周りにまとわりついていた智美の影は段々と薄くなっていく。
  

 だけど。
  

 逆に、『君』という思い出が、僕の中で少しずつ鮮明になっているような気がする。
  

 あの日気がつかなかったしぐさや、言葉の意味までが、今頃になって分かりはじめてくる。
  

 忘れられはしない。忘れるはずがない。
  

 もしも君が全てを忘れたとしても、僕は忘れない。
  

 君と出会わなかったら、今の僕はありえないのだから。
  

 君によく似た人とすれ違う。一瞬、立ち止まり、振り返る。そんなはずはない。と知りながら。それでも。
  

 手を伸ばせば、届きそうで届かない風の恋人。
  

 この砂漠から抜け出すのはいつのことだろう。
  

 まだ僕は、君というオアシスを探し続けている。
 
  

 

 美咲が、手をつないだまま急に走り出す。
  

 僕も小走りになる。
  

 冷たい空気が僕の体にまとわりつく。
  

 まるで、出口のない水の中に潜っているようだ。
  

 美咲が、笑う。
  

 僕も笑う。 
 

 誰も僕の本当の気持ちを知らない。
  

 まだ、溺れているよ。
  

 今も、君の・・・・・・・海で・・・・・・。

                              

 

 

 

<fin>       

  

 

優柔不断オトコですみません。でも、まあきっとこんなもんじゃないかと。

既婚者の方には不愉快な思いをさせてしまったかも知れませんね。

私の作品の中では、意外にも比較的好評な作品です。  

 

 

 

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