さ、これで台所の片付けは済んだ、と。
   後は部屋の掃除と、取り込んだままの洗濯物を片付けなくっちゃ。
   『奥さん』って、毎日こんなことしてるのかな。
   あの人のために、毎日、毎日。
   あたしはそう思うと、何だか幸せな気持ちになって洗濯物の前に座る。
  帰ったら、あの人はあたしを見て驚くだろうな。その顔を想像すると、
  また笑いが込み上げてきちゃう。
   『幸せ』を絵に描いたような二階建ての白い家。部屋の所々に飾られ
  たお花。
   あいつは神経質すぎるんだ。綺麗好きにもほどがあるよ。
   うんざりしたように、あの人はそう言った。
   だけど、あたしだってあなたと暮らせるならこんな風に部屋を飾りたい。
  綺麗にしておきたい。
   だから、奥さんのこと少し分かるの。
   冷たい、猫のような瞳。
   こんな幸せを手に入れていながら、当たり前のような顔・・・してた。
   あれ?
   あたし、奥さんに会ったことあったっけ?
   っと・・・いつ、会ったんだろう。思い出せない。
   でも、顔は知ってる。何で?
   ・・・やめた。わかんない。
   あたしは考えるのをやめて、目の前の洗濯物の片付けに取りかかった。
 
 
   忘年会だった。ずっと憧れていたあなたの隣で、調子に乗って酔いつ
  ぶれたあたし。
   優しかった、あなた。話によく聞く『不倫』という恋愛が始まっただけなの
  かも知れない。いつだって颯爽としているあなたは社内中の女の子の憧
  れの的だった。
   あたしはあなたへの想いを隠しながら、いい部下であり続けることに必
  死だった。
   もちろん、別の男の人と付き合ったこともある。だけど、やっぱり、だめだ
  った。
   心は嘘をつけない。
   あなたにとってあたしは何人目かの不倫相手に過ぎないことも分かって
  る。
   だけど、あたしは真剣だった。本気で悩んだし、泣いた。
   このままの関係で構わないと思うあたしと、何もかもバラしてしまいたいと
  思うあたしがいた。
   気がつくと、あの人と会う度に、泣いてばかりのあたしになっていた。
   楽しい関係を望むあの人があたしを避けるようになったのも無理はな
  い。その冷めた気持ちを感じるたびに、あたしはもっとあの人がほしくな
  った。
   あなたを離せなくなってしまった。
 
 
   あれ。
   何、これ。
   手に取った白い女物のシャツに、赤い染みがついてる。そっと指でなぞ
  ると、赤い色が指先に微かにつく。何、これ。
   よく見ると、部屋のあちこちに赤い染み。
   フローリングの床の片隅には赤いものが固まっている。
   何だろう、あれ。
   あたしはその赤いものを確認してみようかとも思ったけど、やめた。
   何だか、気味悪い。
   あたしは考えるのをやめて、赤い染みがついたままの衣類をたたみ始
  める。
   何だ。話ほどじゃないじゃない。
   彼の奥さんは美人で、綺麗好きで、家なんかいつもピカピカに磨いて
  る、って噂だったし、彼からもそう聞いていた。
   確かに、美人だった。
   冷たさの漂う、表情のない顔。
   だけど、本当は綺麗好きなんかじゃないわ。そりゃ、部屋は片付いてて
  生活感は感じられないけど。でも、こんな赤い染みで汚したままで部屋
  を留守にできるなんて信じられないもの。
 
 
   それにしても、奥さんの姿が見えないのは何でなんだろう。洗濯物、散ら
  かしっぱなしで、台所だって食べかけの食パンが1枚お皿に乗ったままだ
  った。まるで、朝食の途中で誰かお客さんでも来て、出てってそのまんま、
  みたいな感じ。変なの。
   ま、別にいっか。
   あたしが奥さんの代わりをすればいいんだから。奥さんの代わりに彼を
  迎えてあげればいいんだから。
   そう思うと何だかこの家が本当に自分の家になったような気がして、あた
  しは自然に鼻歌を歌っていた。
   彼の下着を丁寧に、たたみながら。
 
 
   それを思いついたのは今朝のことだった。
   不思議なくらい唐突に、突然に、あなたの家を見に行きたいと思った。
   そして見たこともない奥さんのことも、見てみたくなった。
   素知らぬ顔をして、家の前を通り過ぎてみよう。
   決めた。
   あたしは会社に「欠勤」の電話を入れて、クローゼットの扉を開けた。
  着て行く洋服を選びながら、自然に笑みがこぼれてくる。
   何も知らないひと。きっと、あたしを見かけたって眉一つ動かすことは
  ないわ。
   それどころか、あたしから笑いかければ笑顔さえ見せるかもしれない。
   この、あたしに向かって。
   あたしは一番のお気に入りの白いニットのワンピースを選び、鏡の前に
  立った。
 
 
   静かな町並み。
   新しい住宅地なのだろう、そこに建っている家の全てが一つのテーマを
  もって統一されているようだ。
   落ち着いた色の屋根。どこの家も小さな庭があり、色とりどりの花が植え
  られている。
   都心からもそう遠くないこの場所に一戸建ての家を持てるということは、
  それだけの収入があるということでもあり、それはそのままあの人の仕事
  振りを証明しているということにも思えた。
   そう思うとあたしは何だか得意げになって改めて周りを見回した。
   えっと。この辺だと思うんだけど・・・。
 
   タナカ。タナカ。表札を探す。
   あ。あった。銅版のプレートに彼の名前。ここだ。間違いない。
   見つけたと同時に、急に心臓がドキドキしてきた。
   大丈夫。今の時間ならあの人は会社にいる時間だし、子供たちは学校
  。いるのは奥さんだけなんだから。
   あたしは心持ち頭を低めの姿勢にして、家の周りを回ってみる。
  塀はレンガ、小さなアーチ、入り口には縦型のポスト。全体的に落ち着い
  た、洗練された感じの家だ。周りに飾られた寄せ植えの花や観葉植物は
  水をたっぷり含んでいて、この家や庭を大切にしている家人を思い浮か
  ばせることができた。
   ポストの横に、小さなボタン。インターホンだ。
  ここまで来てしまったあたしには、ボタンを押すということに抵抗は感じな
  かった。相手はあたしを知らない。そのことがあたしを強気にさせた。道
  を尋ねるふりでもすればいい。そんな風に気楽に考えていた。そう。この
  時までは。
 
 
 
   その時、玄関のドアが不意に開いた。茶色の重そうなドアの向こうには、
  髪の短い、細身の涼しげな顔立ちの女性が立っていた。
   シルバーのピアスとグレーの細身の形のいいパンツが、その人の洗練
  された印象をより際立たせているようだった。
   「どなた?」
  一度あたしの顔を見て、つまさきから頭のてっぺんまで視線を移してから、
  その人はそう言った。
   けげんそうな瞳。その視線で、あたしの中の何かが音を立てて・・・切れ
  た。
 
 
 
   「主人がいつもお世話になります。あの人の下は大変じゃないかしら」
   優雅な手つきで運ばれてくる紅茶。高価そうなティーカップ。そして左手
  の薬指には小さな指輪。この人だけがはめられる、指輪。
   「あまり思いつめない方がいいわよ」
   優しい口調で語りかける。
   「初めてじゃないのよ、こういうこと」
   緩む口元。
   「私も諦めてるのよ。こういうところもあの人の魅力なのかなって」
   あたしを、見る。
   「あなたで何人目になるかしら。私も半分カウンセラーみたいな感じに
  なっちゃって」
   哀れなものを見るような・・・・。
   「あの人にとって、若い女の子ってオモチャみたいなものなのよ。ごめん
  なさいね、こんな言い方して。でも、こうやってあなたみたいにすごく思い
  つめて来られる方を見るとね、本当に申し訳なくて」
   ・・・・・瞳・・・・。
   いつか観た、映画のワンシーン。セピア色の画面。立ちはだかる女。許
  しを乞い、ひざまずくもう一人の女。
   立ちはだかったその女が一番に見たかったのはもう一人の女の無様な
  姿。涙も鼻水も涎も一緒に流す汚らしい女の本当の素顔。
   あの女はどうしたんだっけ。
   あの女はどうやったんだっけ。
   「ちょっと、あなた?」
   そう、確か、そうだった。
   「ねえ、どこに行くの?お手洗いなら」
   あれさえあれば、あたしも。
   「ねえ、ちょっ・・・・」
   トマトでも切ったのだろう、赤い粒がついたナイフを手に取る。
   振り返ったあたしの手元を見て、猫目の女が顔を歪める。そうそう。その
  顔その顔。
   最初は驚き、次に引きつった顔で笑い、そして泣くの。
   ガラガラガッシャーン。
   後ずさりをする女の手がテーブルの上に置いてあった食器に当たり、音
  を立てて落ちる。
   あたしは構わず、前に進む。女の背中にはもう壁しかない。
   ほら、段々笑い顔も崩れてきたわ。その顔が見たかったのよ。
   引きつった顔で訳の分からない脅し文句をあたしに浴びせる。
   笑顔のままのあたしに、今度は泣き出しそうな顔。忙しい女。
   そして、壁に持たれながら女は座り込む。泣きじゃくる。汚い顔。醜い顔
  。無様な格好。その姿をあの人に見せてあげる。
   あたしは力を振り絞って、女の腹めがけて力いっぱい両手を突き出し
  た。
   女の顔が固まる。
   それを見届けながら、何度も何度もナイフを突き刺す。何度も、何度も。
  バカな女。こんな汚い格好をあの人が見たら、どう思われるか分かるはず
  なのに。
   カラン。
   あたしの力も尽きて、手からナイフが落ちる。
   もう突き刺す場所さえ残っていない真っ赤な物体のそばに、あたしはひ
  ざまずく。
   バカな女。
   あたしはそう一言だけ呟くと、赤く染まった壁に持たれて目を閉じた。
   遠くなっていく意識の中で、この醜い真っ赤な女を見た時のあの人の顔
  が浮かんだ。
   それは突然大きくなって、やがて消えた。
 
 
 
   あ。雨が降るって。洗濯物、入れなくちゃ。
   あたしは洗濯カゴを抱えて、庭に出る。
   雲一つないお天気だけど、いつもの声がしたの。
   『雨ガ降ルヨ』って。
   まだ湿った洗濯物をカゴに一つ一つ入れていると、窓からはママが悲し
  そうな顔をしてあたしを見てるのが視界に入った。
   ここに来てから、ママはいつもあんな悲しそうな顔をしている。あの白い
  白い、壁しかない部屋に住んでいた頃はママは泣いてばかりだったけど
  。でも、今から思えば、あの白い部屋での生活は一体何だったんだろう。
  永遠に続くかと思われるくらい、静かな日々。
   あの部屋で暮らし始めた頃から、あたしの中で別の声が聞こえ始めた。
   男とも女ともつかぬ声。その声が、あたしを慰め、励ましてくれた。
 
   『アナタハ悪クナイ』
   あたしは、悪くない。
   『悪イノハ、アノ女』
   悪いのは、あの女。
   『アナタハ、彼ヲ救ッタダケ』
   あたしは、あの人を救った・・・・・・。
   あの時のあの人の顔を思い出す。あの人の家で家事を済ませ、夕食を
  作って彼を迎えた。いつになっても姿を見せない奥さんが、あたしに全て
  を譲ってくれたんだとしか思えなかった。玄関のドアを開けた彼の顔は、
  あたしを見るなり声も出ないほど驚いていた。
   ありったけの微笑で出迎えたあたしを押しのけ、奥さんの名前を呼びな
  がら部屋に入っていく彼。その瞬間、あたしは今朝の出来事を思い出し
  た。
   あの真っ赤な物体。醜い物体。
   くす。
   今はあの女の名前を呼んでるけど、あの姿をみたらきっと。
   声にならない、悲鳴のような叫び声が聞こえる。
   ほら、醜いでしょう。汚い。あんな姿の女、あなたは愛せる?
   勝ち誇ったように微笑むあたしの前に現れたのは、真っ青な顔の、血
  だらけの、冷たい瞳で私を見るあの人だった。
   力強くあたしの肩を掴み、揺さぶる。あなたが何を言っているのか分か
  らない。どうしてそんなにあたしを責めるのか、分からない。
   あなたを愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。
  愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。
  愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる。愛してる・・・・・・・・・。
 
   そこで、時間が、止まった。
 
 
 
   本当ならあたしは、こんな風に普通の家で、普通に生活してちゃいけな
  いんだと、ママは言った。あたしは重い頭の病気であのままあの白い壁
  の部屋で生活していくところを、トクベツの計らいがあってこうやって二人
  で暮らせるんだから、ママの言うことをよく聞かなきゃだめよ、とママは泣
  きながら言った。
   トクベツの計らいって何だろう、と思った時、声が言った。
   『彼ダヨ』『彼ガアナタヲ出シテクレタンダヨ』
   あたしは微笑んで、ママに頷いた。
 
  

   整然と立ち並ぶ、積み木のような家。
   それぞれの家庭があり、それぞれの生活がある。
   そんな生活の中で、彼はあたしに救いを求めていた。
   ・・・・だとしたら、彼だけじゃない、ここに住む人たちも同じように救いを
  求めているんじゃないだろうか。
   それを隠して、平気な顔して、生活しているんじゃないだろうか。そう。
  あの人のように。
   毎日毎日この坂道を降りて、ラッシュの電車に揺られ、会社と家の往復
  の日々。いつかあの人があたしに言った言葉を思い出す。
   『君がいなきゃやってらんないよ」
   あの家のあの人も、そこのあの人も、同じ気持ちなんじゃないだろうか?
   『助ケテアゲナキャ』
   声が響く。そうだ。あたしが助けてあげなきゃ。できるだけ、たくさんの人
  を。できるのは、あたししかいない。あの人をあの悪魔から救ったように。
   時計を見ると、午前10時を回ったところだった。
   あの日と同じ、彼だったら会社に出かけていていない時間だった。
   助けてあげられる。今なら。
   あたしは洗濯物のカゴを玄関先に置く。
   ママに見つからないようにそうっと、門を開ける。
   『勝手に家から出ちゃだめ』って言われてるもの。そうっと、静かに。
   
    さあ、どの家から行こう。やり方は分かってるから、もう大丈夫。
   あたしは久しぶりに晴れ晴れとした気持ちで歩き出す。
   『彼モ喜ンデル』
   そう。あたしにだって、分かる。
   素足に履いたスニーカーは軽やか。心まで、軽やか。
   それを表すかのように、あたしの頭の上には、雲ひとつない青空がど
  こまでも続いていた。 
 

                                     FIN

 

  

                                       

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